スーパーヒーローであれダメ男であれ平凡な新入社員であれ、いろんな主人公・登場人物たちが戦っているとき、個々の読者・観客がそのとき、どのくらい一所懸命その人物を応援できるかというと、その思い入れの強さはしばしば登場人物と自分を重ね合わせられる度合いに比例する。それで応援している登場人物がなにかを達成して、それが虚構世界のなかで報われると、応援していたほうも報われた気になるし、登場人物につらいことがあって、その苦境を作品が同情的に提示していたなら、なんだかじぶんまでが「よしよし」とされてもらっているようで、癒されるということになる。
そういう側面だけで物語を消費してきた人は、物語には「共感してもらえて当たり前」という前提で構えている。だから気の毒なことにこういう人の人生には、
「主人公にはまったく共感できないが(=作者にはぜんぜん共感してもらえなかったが)、小説としてはものすごくおもしろい」
という体験の選択肢が、はなっからまるまる欠けているのだ。こういう人は、作者に共感してもらえなかったことに(自分で思っているより深く)傷つき、本を叩くコメントをウェブ上に書いてしまうのだ。それだけではない、ウェブ上のコンテンツ/コミュニケイションにも「共感してもらえて当たり前」という前提で接してしまうのだ。
"36. 「共感できない本」を読めないあなたは、共感されたいだけ。:日経ビジネスオンライン (via raurublock)